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横山博ピアノリサイタル 《4'33''》《バニータ・マーカスのために》

Morton Feldman : For Bunita Marcus から冒頭(2020/1/11豊洲シビックセンターでのライブ録音)

▶ 再生 soundcloud 

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>>>批評誌『エクリヲ』によるロングインタビュー

Interview:横山博「アメリカ実験音楽を「古楽化」し、刷新する。鍵盤奏者、横山博のヒストリカルアプローチ」

《感想集》

>>> 〜Twitter感想集〜

...横山博ピアノリサイタル、素晴らしかった。一般的なフェルドマン解釈では拍感や小節線の存在を希薄にすることに注力するが、横山氏の解釈はその逆。リズム構造を明確にし(すごい集中力!)結果として、いびつでダンサブル(!)な音楽が浮かび上がった。形骸化したフェルドマネスクに喝を入れる演奏。 

 

>>> 箏奏者 沖政一志 website

(...)現代は商業的な音楽もサブスプリクションの時代となり、個人でもお店でもどんどん音楽を流して空間内に音が何かしらで充満している時代となってきましたが、この「4分33秒」のように音を意図的には奏でないという方向性はまた違う形で皆も体感しているかもしれません。例えば黙祷。例えば座禅。どこでも音が溢れる時代になったからこそ静寂も価値があると思います。

 

▪ クラシック音楽ファシリテーター 

飯田 有抄さん フェイスブック記事より

 

【昨夜の横山博さんリサイタル その1】

 

ケージの「4分33秒」の“実演”に接したのは初めてだったかもしれない。昨夜開かれた、豊洲シビックセンターホールでの横山博さんのコンサートです。

 

作品のコンセプトはあまりに知られすぎているかもしれないが、実際に「上演」されればやはりそこには、かならず新しい何かが感じられるものだ。

 

この作品のことを全く知らないで客席に座ってしまった人は、おそらく誰一人いなかっただろうと思われる、ある種の「マナーの良さ」が充満する客席。横山さんがピアノの前に座るやいなや、シンと静まりかえり、だれも微動だにしていない静寂の瞬間が、本番中に何度か訪れた。となると、耳には本当に「シーン」というか「キーン」という音が「聞こえる」感じがする。

 

豊洲のシビックセンターホールは、ステージの後ろがガラス張り。近くの道路や、少し先に見える高速道路、そしてライトアップされた美しいレインボーブリッジを行き交う自動車のヘッドライトが動いて見える。エンジン音というノイズを出しているはずのものを、リアルに視覚的に捉えられる空間でありながら、コンサートホールとして完璧に外部の音を遮断している。というか、ここはここでありながら、隔離されている。そんな中で今「4分33秒」を鑑賞(?)している。「上演」中、そんなことがやけに実感されておもしろくなった。

 

そして私は、いまここで自分が客席から「にゃーお」と言ったてしまったらどうなるのかな、と思った。そしたら楽しくなった。だれかが笑うかもしれないし、だれかが対抗して「わん」と言うかもしれないし。でもそうなってしまった空間を、ステージ上にいる横山さんは果たして好きになるのか嫌いになるのか何とも思わないのか、どうなんだろうかとか思っていたら、横に座っている親友が、必死に笑いを堪えているではないか。ちょっと息で笑ってしまっている。きっとこの人の頭の中でも、何か起こってるんだな〜と思ったら、私もつられてちょっと息で笑ってしまった。

 

とは言いましても、昨夜の「4分33秒」はいたって静かでエレガントな仕上がりだったのではないでしょうか。どうなんだろう。

センセーショナルであるにはあまりに伝統的になってしまった「4分33秒」。この作品が訴えかけるものというのは、基本的に変わらないはずだけれども、上演に接する人が実際にオン・ザ・スポットで感じられたり捉えられたりするものは、時代とともに変わりゆくのだろうか。

 

さて、本当に書きたかったのは「4分33秒」のことじゃないのに、文字にしたら長くなってしまった。コンサートのメインプロ、モートン・フェルドマンの「バニータ・マーカスのために」については、投稿を別立てにしよう。

 

【昨夜の横山博さんリサイタル その2】

 

「4分33秒」から休憩を入れぬまま、モートン・フェルドマンの「バニータ・マーカスのために」へと突入した横山さん。

この作品、きっちり正確に演奏すれば、75分かかるという。たぶん昨日の横山さんは75分くらいだったと思う。

 

スコアを見れば唖然とするような作品だ。重音はほとんどない。一度に発音されるのは多くて3音から、最大で5音。ほとんどが単音だ。ところが拍子は5/16、3/8、2/2と小節ごとに不規則に変わっていく。響きとしては極めて叙情的な音運びだが、そこになんらかの規則性や中心音を予測することはできない。研ぎ澄まされた純度の高いその1音、その重音、その沈黙。奏者にとってはおよそ75分間、極度の集中力を求められる作品だ。

 

ところが、聴く側にとっては、こんなに気持ちのいい音楽はない。というか、昨日の横山さんの演奏が、そうだった。スコアにはダイナミクスは一切書かれていない。しかし横山さんは、極めて自然に、音そのものから自然と立ち上ってくるような陰影を纏わせて、沈黙のなかにポトンポトンと音を柔らかくおいてゆく。

 

その音色が、ファツィオリのピアノに特徴的な、伸びのよい、なかなか減衰しない発音とあまりに相性が良く、もう私はずっとずっと目を閉じ、体を深く椅子に預け、ただただ宇宙に浮かぶような気持ちで耳を遊ばせてもらっていた。でも時々目を開けて横山さんを見ると、すごくしっかりカウントを取っている様子が伝わる。でも音からはそれがまったくわからない、美しすぎるアタックの連続。いや〜この人はすごい...と驚愕しつつも、心地よくまた目を閉じさせてもうらうのだった。

面白いコンサートだった。

▪ 一般男性

 

という訳でジョン・ケージ「4分33秒」とモートン・フェルトマン「For Bunita Marcus」の横山博によるピアノ独奏を聴きに行きました。

会場は豊洲シビックセンターホール(おとな2000円)。5階のクラシック用演奏会場は背が一面のガラスで、借景にレインボーブリッジが控えるという凄まじい場所。全300席に80人くらいが集い。

横山が登場して、一礼のあとピアノに座る。

 

ケージの「4分33秒」がここで演奏されることを期待する客の前でこの曲を奏で始めるということはプレイヤーとして類のないチャレンジを求められるように察します。横山は少し気負いを構えに示して、手は腿の上に置いたまま第一楽章を始めました。何も音が出てきません。聴衆の注視が高まります。ジッーっと。ジリジリと照明か椅子のちょうつがいかな?ノイズが低く流れ。無音のレインボーブリッジのライトの脈動に俺の意識が連動し、ビート感がたちのぼりました。しかし横山からは見えているはずもなく。

 

探り合いの2分弱が経ち、ひと息。演奏者と聴衆が息をつきます。

双者、構えて第二楽章。先ほどより落ち着いた無音が拡げられていき、存分に展開され、時間を拡張して、一旦過ぎます。

ハンカチを取り出して汗を拭う仕草を複数回行って、最終の第三楽章。依然手は腿の上で動かずの構えで、弾き続けています。リスナーの受容にバラつきが発生しており、人間起源のノイズが時にかすかに鳴っています。通常的なバランス感覚から乱暴にもジャッジすると、少し冗長さを思うほど長めに通して、このピースが終わりました。たぶん6分くらいかかった。

起立、拍手。横山サイドに引っ込む。

 

みな気を取り直して、再登場したビアニストが75分におよぶ、モートン・フェルトマンの大曲を始めます。これも75分と予告されており、聴き手は「75分の曲を聴くのだな」という覚悟をもって態度を決めます。横山博ブログにある大西穣の解説によるとフェルトマンは「対位法の代替物」として沈黙を曲中に配置するよう意図したらしいんですが。手を変え品を変え、筆あとを残すように、沈黙にかつてないような彩色を施すよう、ダイナミクスを生かさず、低音域をほぼ使わず、和音をおおむね避けて。モノトーンに聴こえるかのような長い長い演奏から受け止める美、がじっと染み渡り終演。

 

と、現代音楽のライトリスナーの鑑賞レポートでした。遠足の日記ですね。専門的なことは音楽家の方などが Twitter などにアップしてるので、くぐってください素敵な皆様。

ケージの評伝には禅や東洋思想への傾倒が記されています。確かに4分33秒に籠もるエネルギーは能のシテ方の動きが強く発するものと共通しているようです。

別の実例として、かつて世に出た山下洋輔が、1980年ごろかな?一般向けの「フリージャズを語る」みたいな講演の冒頭に、予告なく4分33秒の演奏をカマしたらしく、在席の人たちの戸惑いと不安を解題しながら話した記録がありました。鑑賞に文脈の了承は必要なのか?

 

4分33秒は1952年の作品ですが、俺の手元にはブックオフ南阿佐ヶ谷店で650円で買ったケージ「プリベアード・ピアノのためのソナタとインターリュード(1946 - 48)」、Boris Berman 演奏、Naxos盤があるのでかけてみましょう。この65分間が何と、とっても心地よく聴けてしまうのです。音楽史のことは知らないので素敵にグクっていただきたいのですが、当時世間に存在しなかった、ここで聞かれるサウンドが人間の耳の受容を拡大してきなのだなあとは感じます。グランドビアノに小物を挿入して出た、しかし生音である楽音が、その後を知る私たちの耳には、「あ、Fender Rhodes の音パクってるみたーい!」とか時間を倒錯して感じたりします。

 

モートン・フェルトマンの4CDピアノ全曲集、John Tilbury 演奏、LondonHall盤を聴いてみましょう。初期のものには、沈静さから突然のぼりつめるダイナミクスが散見しますが、和音とかカラーリングとか、音の密度とか時代を通じて変わり行った感じです。最後の作品が1985年のバニータ・マーカスのために。沈静、抑制的なようなのに、強く美しい。

 

ところで、この日はふだん音楽を聴かないが、すごく身体による表現を極めている集団で俳優を長くしているNさんと同行してました。彼女の感想が音楽リスナーでない立場のもので、伺う俺はそこに核にあるラディカルさを受け止めたために、多くを考えました。

「4分33秒は、楽章間に動きをとっていたが、あのお芝居は欠かせないものなのか?無音の表現を身体の動作を足すことで行うべきなのか?」

「フェルトマンの長い曲は、パンフに独特の譜面割りが挙げられていたが、きょうピアニストは上半身で拍をとりながら演奏していた。曲が意図的に抑制的に構成されて進行しているのに、演奏者は体で時間をつかむ姿を見せてしまっていいのか?音だけで鑑賞すればちがうかもしれないが、見ていると動作に意識がいってしまった」

「現代音楽はほとんど聴いた経験がなかったが、普通の音楽らしさを排除したものを鑑賞したい人はそんなにいるのか?誰がどこでおこなっているのか?」

 

問い詰めたいとかではなく、彼女のこれまでの音楽受容から大きく逸れていたことを言葉にしたと。

4'33" は楽譜に楽章間の休みが指定されているわけですが、さて。

音楽演奏者の多くは自然に身体でタイムをとるが、せれを避けるべきか?

彼女は、ロバート・ウィルソンの舞台「ケージの Lecture on Nothing に基づき」を昨年、富山県利賀村で間近に見て、ケージを意識してきたらしく。

ウィルソンの時間のとらえ方については、高校生の時に銀座セゾン劇場で初めて見た彼の作品で、3時間舞台の真ん中で左右にゆっくりと振り子のように上半身を動かして、ひたすら繰り返し続ける作品で目撃したそう。出入り自由の会場なのに、見ると彼女の一列は全員じっと眠っていたらしい。

 

※開演時刻が1分ほど遅れ、また、会場の電光時計が消えておらず、19:36分と表示されていたのであろう。

 

>>>フェルドマンによる《バニータマーカスのために》作品紹介

この作品が例外的な作品で、リズミカルな音楽なのだと述べられています。

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 ▪ 一般男性

 

豊洲のシビックホールにて、横山博氏の、モートン・フェルドマン曲のリサイタル。

最初にジョン・ケージの4分33秒(音を鳴らさない曲)にて、耳がツンと鳴るほどの沈黙の行をしたあと、フェルドマン曲の静謐な、常にペダルが踏まれており決して音が途切れることはない、9度音程等から発するのであろう僅かな唸りを交えた、75分が始まる。

 

最初はやや眠くなるが、徐々に意識は冴え渡り、遠くのレインボーブリッジや、空を横切ってゆく飛行機や、周囲のマンションに住んでいるであろう人々や、ホールの中の皆さんなどが一つの光景の中に収められてくる。

大きな絨毯を染める過程をイメージして作られた曲とのことだが、ワイン抜栓後の75分の香りの変化とかでもよいかも。徐々にニュアンスを変えながら、最後揮発するのか、地に還るのか、人の中に消化されるのか・・・(どちらかというと地に還る感じだった。)

 

完全に記譜されている楽譜とのことだが、一期一会、違うピアノ(例えばベーゼンドルファー)だとまた違う音楽になるのではないか。意識の流れとピアノの音とを一体化させる、ということについての一つの理想。(肉体的なリズムを使うキース・ジャレットの長大なソロよりもずっとよい。)

 

CDを送っていただくことにしたので、CDと一緒に次の音を予測しながらピアノを鳴らしてみて、自身の音程感覚を振り返りたい。独創的でユニークなリサイタルだった。


▪リサイタル当日配布パンフレットより

 

空間化される時間

——————————横山博

 

 諸々の芸術分野、ポップカルチャーなどに影響を与え、また、自然科学の領域でも語られることの多いアメリカの作曲家ジョン・ケージですが、その作品が滅多に公開演奏されないことでも有名です。完全な沈黙を体験しようとジョン・ケージはハーバード大学の無響室に入りしました。音から遮断されたはずの耳に聴こえてきたのは、「血液の流れる音」と「神経系統の音」という二種類の身体内からのノイズでした。命の音を聴いたケージは「沈黙は存在しない」という認識に至り《4分33秒》を作曲したとされています。

 

 一方、モートン・フェルドマンは、視覚芸術を音楽に変換することを試みていました。フェルドマンは若い頃、抽象表現主義画家の制作助手をした経験があり、キャンバスの面積と、音楽作品の持続時間を関連付けていました。美術作品で「大きな作品」は、音楽作品に置き換えると「長い作品」になるだろうと考えるようになりました。フェルドマンと交流のあった抽象表現主義画家、マーク・ロスコ[1903-1970]もまた、巨大な作品を多く制作しました。ロスコの作品を、日本では千葉県佐倉市にある川村記念美術館で見ることができます。《シーグラム壁画》と呼ばれる、横幅4.5メートルに及ぶ絵が薄明かりの部屋に7点展示されており、その薄く何層にも塗り重ねられた赤茶色の絵肌は、乾いた血を思わせます。深い内省を促すその絵画群は、視覚芸術の枠組みを超え、ひとつの空間芸術インスタレーションとなっています。

 

 フェルドマンは、ドイツのダルムシュタットでの講演会で、自身の作品とペルシア絨毯との関係を述べています。

 

 「私は、『絨毯ラグ』から音楽のアイデアを得たのです。天然の野菜で染められた伝統的な絨毯には、アブラッシュと呼ばれる色ムラがあり、微細な色調を備えています。仄かにグラデーションとなった、微かな光を、そこには見ることができるのです。絨毯と、音、二重の感覚を持って、どうしたらそれを音楽にできるのか。あの深く精妙な青は、一度染めただけでは出すことができません。何度も、何度も、染め直す必要があるのです。屋外に出た女性たちが、時間をかけて、注意深く染め直し、そしてまた染め直すという作業を繰り返すのです。作業を行っているその音が、私の作品のアイデアの一部となっています。」

 

 《バニータ・マーカスのために》の出版にあたって、フェルドマンは次のようにコメントしています。

 

 「リズムという言葉の代わりに「リズミカルにする“rhythmicize”』とい

う言葉を使いたいと思います。この作品は、主に3/8拍子、5/16拍子、2/2拍子のパターンで構成されています。メーター(拍子、音の長さ)というものを、ひとつの作図法として用いたのです。その結果、メーターと時間の関係は、作品の持続時間として現れました。」

 

 1982年にコンパクトディスクが発売された当初、その最大収録時間は74分でした。《バニータ・マーカスのために(1985)》の演奏時間は75分とされています。CDでは連続再生ができないよう演奏時間を設定したのでしょうか。SPレコードの最大収録時間5分を超えないように作曲された《4分33秒》とは対照的です。