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クラヴィコードで甦る音楽家たち/出井陽子

 2017年6月/sonorium/横山博クラヴィコードリサイタル/プログラムノートより


 クラヴィコードほど歴史的名音楽家に愛された楽器はないだろう。J.S.バッハ、ハイドン 、 モーツァルト、ベートーヴェン、C.P.E. バッハ (J.S バッハの息子)、これら天の才能を授けられた音楽家たちは皆、この小さな楽器を「表現力を磨くための最良の楽器」であると認めていた。

 

 J.S.バッハはクラヴィコードを最も愛していた。チェンバロは確かに多彩な表現を可能にするが、彼の魂を十分に満たすことができなかった。クラヴィコードほどの多様な音質の変化が得られる可能性など、 他の鍵盤楽器からは感じていなかった。

 モーツァルトはクラヴィコードを作曲用と旅行用などいくつか所持していた。1781 年、ヴェーバー家 (妻宅)に宿泊している間に、モーツァルトは父親に手紙を書いている。「僕は今クラヴィコードを借りに行っている。それが部屋に来るまで僕はそこには住まない」。彼がクラヴィコードを日常生活の必須アイテムとしてみなしていたことは明らかである。“トロンボーンのような低音”、“ヴァイオリンのような 甘い高音”...様々な音域で個性的な色や性格をもつクラヴィコードをモーツァルトはたいそう気に入っていた。

 

 クラヴィコードについて最も画期的に記した作曲家は C.P.E. バッハの他にいないだろう。クラヴィコ ードは彼のお気に入りの楽器であった。全ての演奏者にチェンバロとクラヴィコードの両方を所有するよう勧めていたけれども、「鍵盤楽器奏者を最も的確に評価するのはクラヴィコードだろう」と記した。

 

 パッヘルベル、J.S.バッハ、C.P.E.バッハ、モーツァルト、親子関係にあるJ.S.バッハと C.P.E.バッハを除き、一見すると結びつきのない音楽家たちであるが、一本の線で綺麗に繋がっている。パッヘルベルは 1677 年、アイゼナハで J.S.バッハの父に出会い、子息らの家庭教師をした。アイゼナハでの生活はわずか 2 年足らずであっ たが、パッヘルベルの直弟子である長兄ヨハン・クリストフ・バッハは、アイゼナハを去ったパッヘルベルの後を追った。その後も師 事しヨハン・クリストフは「卓越した芸術家」と呼ばれるオルガニストになった。両親亡きあと、14 歳年下の幼き弟 J.S.バッハを引き取り、鍵盤楽器を一から教授したの はヨハン・クリストフである。J.S.バッハは兄を通して、いわばパッヘルベルの孫弟子として、優れた作 曲技術を身につけることができたのである。それは J.S.バッハの教育を受けた息子の C.P.E.バッハについ ても然りである。モーツァルトは、父に寄せた手紙で幾度も J.S バッハの息子ヨハン・クリスティアンに ついて言及しており、1782年にヨハン・クリスティアンが急逝した際には「音楽界にとっての損失」と 述べている。また、J.S.バッハの曲については、「このフーガはそう簡単に弾けない」と評することもあった。モーツァルトがバッハ一族に尊敬の念を抱いていたことは間違いないだろう。彼らの魂、才能を結びつけているのは彼らの生活の中心にあった『クラヴィコード』なのである。

 

ヨハン・パッヘルベル アポロンの六弦琴

 パッヘルベル(1653-1706)は、神聖ローマ帝国の自由都市ニュルンベルクに生まれた。幼少の頃より 強い知的探究心と並外れた楽才を示し、音楽以外の学才にも優れていた。1669 年、15 歳でアルトドルフ 大学に入学し、またローレンツ教会オルガン奏者も務めるが、経済的理由から一年足らずで退学せざるを えなくなる。しかしながら翌年春、レーゲンブルクのギムナジウム・ポエティクムに奨学生として入学、 文学を学ぶかたわら、学外で音楽を学んだ。1673 年、ウィーンに赴き、聖シュテファン大聖堂の副オル ガン奏者に就任する。同年、ケルルもウィーンを訪れており、パッヘルベルはこのイタリアの様式に精通 した音楽からさまざまな影響を受けた。彼自身はルター派を信仰していたが、カトリックの音楽形式からも学び、その諸要素を自作のなかに取り入れた。パッヘルベルは、当時のドイツにおけるもっとも進歩的 な作曲家の一人に数えられる。南部ドイツの歌唱的な様式と、中部ドイツの定旋律や対位法などの様式を合わせたオルガン音楽、とりわけコラール変奏曲の様式は J.S バッハに多大な影響を与えた。

 

 パッヘルベルはオルガン奏者として多忙な日々を送っていたにもかかわらず、かなりの多作家であった。作品はオルガン曲(典礼用と非典礼用)、オルガン以外の鍵盤作品、室内楽曲、声楽曲に及んでいる。 主な作品には、三つのヴァイオリンと通奏低音のための《カノンとジグ ニ長調》、オルガン・コラール 《前奏のための八つのコラール》、二つのヴァイオリンと通奏低音のための六つの組曲《音楽の愉しみ》である。われわれ日本人に馴染みの深い「パッヘルベルのカノン」は、《カノンとジグ ニ長調》の前半部である。

 チェンバロのための六つのアリアと変奏《アポロンの六弦琴》(1699)もまた、彼の代表作の一つである。 すべての曲に共通するが、簡潔明快な様式で書かれている。彼の対位法は、明確な方向性をもつ和声進行 とつねに両立しうるもので、転回(応答が主題を上下に転回する)、逆行(応答が主題を逆から模倣する)、 拡大と縮小(応答が主題の音価を長く、または短くする)、ストレット(主題が終結する前に速度を増して緊張感を高める)などを巧妙に用いる手法である。

 

 初版《アポロンの六弦琴》楽譜の表紙中央には、 「オルガンまたはチェンバロで演奏するための六つのアリア。そこに、変奏曲が加えられる。ミューズ(ギリシャ神話九女神)の楽しみのために」と書かれている。彼が意図した楽器については楽譜の表紙絵に描かれている。二人の天使が描かれているが、一人はパイプオルガンを、もう一人はチェンバロもしくはクラヴィコードを弾いている。チェンバロとクラヴィコードどちらとも解釈できる絵であるのが面白い。細部を眺めていると、むしろクラヴィコードと断定して良いほどである。弦は横に張られているし、楽器はデスクの上に置かれているように見える。パッヘルベルは、 この序文の中で彼と交流の深かった偉大なオルガニスト、ディートリッヒ・ブクステフーデ(1637 頃 -1707)とフェルディナンド・トビアス・リヒター(1651-1711)に捧げる曲であると述べている。パッ ヘルベルは息子のヴィルヘルム・ヒエローニムスを溺愛していたため、息子の教材になれば良いとの願いもあったに違いない。それならば、オルガンにもチェンバロにもアクセスできるクラヴィコードを使うよう暗に示唆していたとも言えよう。 表紙の一番上を見てみると、二人の天使が「六 弦琴」を掲げているのがわかる。パッヘルベルは自身を音楽の神である「アポロン」に、ブクステフーデやリヒター、彼らに関わる者たちを、 音楽や舞踏、文芸を司る女神「ミューズ」に例 えているとも解釈できる。「音楽の神」と称することができるほど、彼にとって最高の自信作だった。

この作品は果たして本当に「オルガン、チェンバロのための曲」だろうか。オルガンにもチェンバロに も表現することのできない『歌唱的で甘美に響く良い音を持った(C.P.E.バッハ)』魅惑の楽器クラヴィコ ード、《神の曲》を奏でるにはこれが相応しい。

 

力ール・フィリップ・エマヌエル・バッハ スペインのフォリアによる 12 の変奏曲

 カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(1714-1788、以下 C.P.E.バッハと略記)は、J.S.バッハの息子として生また。フルートを愛好するフリードリヒ大王にチェンバロ奏者として仕えたのち、ハンブ ルクの音楽監督とカントール(合唱長)を長く務めた。作曲家としてはバロック音楽と古典派音楽の橋渡し役となった。その作風は、父のJ.S.バッハや D.スカルラッティの鍵盤作品を規範としつつも、対位法の要素はあまり強くない。装飾や走句を多用する「ギャラント様式」、唐突な雰囲気の変化や大胆な転調に よって感情を直接に表現しようとする「多感様式」を特徴とする。C.P.E.バッハの代名詞と言える、体系的で理論的な教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論 (1753/1762)』を著し、音楽理論家としても有名 であった。彼の作風や理論は、後輩のハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどに大きな影響を与え ている。カール・ツェルニー(1791-1857)は彼の自伝のなかで、ベードーヴェンの弟子入りとなることが 決まった際に、ベートーヴェンがツェルニーの父親に「正しいクラヴィーア奏法試論」を買い与えるよう 助言したと回顧している。

 

 「フォリア」とは、15 世紀のポルトガルに起こり、17 世紀にスペインで流行した踊りで人々が踊り狂うところからその名が付けられた。17 世紀後半にフランスのルイ 14 世の宮廷に導入されてからは、ゆっくりと荘重な舞曲へと変化した。フォリアは、低音部の進行及び和声進行が定型化されるにつれて、これ をもとに変奏曲形式で演奏することが広まった。このような手法は、シャコンヌやパッサカリアなどの変奏曲、あるいは「パッヘルベルのカノン」とも共通するものである。 『私の主な関心は、とりわけここ 数年の間は、音が長く続くことのないクラヴィーアで、できるだけ歌唱的に演奏し、そうしたクラヴィー アのために歌唱的に作曲することに向けられている』(C.P.E.バッハ、「正しいクラヴィーア奏法試論」)

 

 優雅に踊るような《“Les Folies d’Espagne” with 12 Variations, スペインのフォリアによる 12 の変奏曲》、クラヴィコードの歌唱的な演奏でいかに踊らずにいられるだろう。横山氏がクラヴィコードに選ばれた演奏家であると、証明してくれる。

 

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト「ああ、お母さんきいて」による 12 の変奏曲

 モーツァルト(1756-1791)、彼を「天才」の一人として括ってしまうのは浅はかかもしれない。モーツァルト研究者で音楽学者のアルフレート・アインシュタインは彼のことを、「この地球にちょっと立ち寄っただけ」と著した。アインシュタインはモーツァルトをもはや「天才」ではなく「神」とみなしていたのだろう。モーツァルトは俗世に降り立ち、何とも人間味溢れる人生を歩んだ。幼少期から神童の名をほしいままにしたモーツァルトであるが、思うような定職には就けず、各地を転々とする。お人好し過ぎる性格で金銭には無頓着、時に愛に溺れ、父の忠告や警告を無視して親子関係を危うくすることもあった。

 1778年フランス、モーツァルトは母と共にいた。当時、モーツァルトは歌手ヴェーバー家の世話になっていたのだが、ヴェーバー家の長女、アロイージアに恋をする(失恋することになるが)。彼女のために曲を書き、ピアノを教え、終いには彼女と共に旅をすると父に手紙を書き、父の逆鱗に触れるのであっ た。モーツァルトの彼女への入れ込みようは母をも不安にさせ、モーツァルトに内緒で夫に追跡の手紙を送るほどであった。相も変わらず定職に就けない苦境の最中、アロイージアに身を焦がし自分を見失いつつあるモーツァルトを残し、母はこの世を去る。

 

 《Ah! Vous dirais-je, Maman(ああ、お母さんきいて)による12の変奏曲 ハ長調》は、この 1778 年に作曲された。わが国では「きらきら星」として馴染み深いが、「きらきら星」の歌詞が書かれたのはモーツァルトの死後である。この変奏曲の主題(テーマ)は18世紀当時にフランス流行していたシャンソンだ。この曲にはさまざまな種類のタッチに習熟するための、音階、分散和音、装飾音が散りばめられている。教育的要素が強いこの変奏曲は、弟子のために書かれたものに違いない。徐々にリズム変奏をしていくにつれ、もとのメロディーの面影はあるものの、多声的になるなど奥深さも併せ持っている。この変奏曲では、左右の手の音価を細分化していく手法とは異なり、左右の手が形作るリズムや前進力の変化等に趣向が凝らされている。

 テーマとなった曲は、少女(または少年)が愛について母親に語るものである。絶望させ 罵 られることが目に見えているため父には言い出せなかった愛の思いを、亡き母には語りたかったのであろうか。この歌詞を読めば、まさに当時のモーツァルトを代弁しているといえよう。愛に翻弄されていたモーツァルトを横山氏の演奏を介して覗いてみてほしい。

 

ああ、話したいのママ

私の悩みのわけを 

パパは私にもっと大人らしく分別を持って欲しいみたいだけど 

そんなのよりキャンディの方がよっぽどいいわ

 

(Ah! Vous dirais-je, Maman)